OTA KAZUHIKO Days of Wine&Art アートと一杯 太田和彦、美術と酒を巡る

第9回
古代ギリシャの神々を、
湯島「シンスケ」で思い描く

かなり昔のこと。出張で訪れたロンドンでわずかに時間が空き、無料でもあるので大英博物館を訪ねた。一日ですべてを見ることなど到底できない世界最大の博物館で、他はあきらめてまっすぐ足を運んだのは、西洋美術の源流であるギリシャ、ローマ関係だ。そこで圧倒的な感銘を受けたのは、田舎の高校生のころ懸命にデッサンした石膏像、アポロ、ヘルメス、ラオコーンなどの本物だ。「最初の本物」であるかはわからないが、複製にせよ、学校の美術室にある石膏像とは迫力がちがう。以来、美術の最高峰は彫刻にありと思うようになった。

上野、東京国立博物館の「古代ギリシャ展」は、ギリシャ国内の40以上の博物館から集めた325件で、新石器時代から紀元後300年頃まで、およそ7000年間を展望するという壮大なものだ。広い会場は「古代ギリシャ世界のはじまり」から「ヘレニズムとローマ」まで八つに分かれ、小さな装飾や貨幣、陶片からほぼ等身大の彫刻、モザイクの床の再現まで多岐にわたる。

実用の甕や土偶の古代を経て、最初に美意識を感じるのは紀元前2800〜前2300年頃の《スペドス型女性像》だ。製作時の着彩が消えたなめらかな大理石像の、頭部頂上のわずかな広がり、象徴的な鼻の突起、下半身の曲線と直線による洗練されたフォルムは、20世紀現代彫刻の巨匠ヘンリー・ムーアに匹敵する、いや越えていると書きたい。胸の腕組みは、全体が洗練され過ぎぬよう意識的に素朴を投入した「計算」であるかのようだ。

《スペドス型女性像》初期キュクラデスⅡ期、(前2800~前2300年)、キュクラデス博物館蔵 ©Nicholas and Dolly Goulandris Foundation- Museum of Cycladic Art, Athens, Greece
《スペドス型女性像》初期キュクラデスⅡ期、(前2800~前2300年)、キュクラデス博物館蔵 ©Nicholas and Dolly Goulandris Foundation- Museum of Cycladic Art, Athens, Greece

《漁夫のフレスコ画》(前17世紀、テラ先史博物館蔵)に目を見張った。人体ラインの無駄のないカーブは完璧で、手に提げた魚の意匠化、赤茶と青と黄の明快な色使いのうまさ。さらに魚を獲ることの発見に目覚めて微笑するかのような初々しい表情。前17世紀の絵が現代から見てもモダン、などの言葉はまことに陳腐で、それよりも最初の美術がすでに洗練されていたことの驚き。ここには文明草創期の泥臭さやアニミズムは全くない。

前530年頃の《コレー像》(アクロポリス博物館蔵)、前520年頃の《クーロス像》(アテネ国立考古学博物館蔵)は、立体表現を得てリアリティを増す。《コレー像》の髪型、衣裳の図案的洗練。《クーロス像》の男子の身体を理想化した造形感覚。

《漁夫のフレスコ画》前17世紀、テラ先史博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《漁夫のフレスコ画》前17世紀、テラ先史博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《コレー像》、前530年頃、アクロポリス博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《コレー像》、前530年頃、アクロポリス博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《クーロス像》前520年頃、アテネ国立考古学博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《クーロス像》前520年頃、アテネ国立考古学博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund

ある映画で「ギリシャ人は神を人間の形で造形し、その出現を期待した」という言葉があった。実用的な壺や捧げ物ではなく、純粋に「芸術(これは近代に生まれた概念で、何かを表現する本能的喜び)」だけのものとしての立体表現は、まず人体=自分たちに向かい、そこで志向したのは「神々も人間と同じであってくれ」とする理想の像だった。そのときの顔の表情が「アルカイック・スマイル」だ。美術の最初の表情表現が、威厳でも悲しみでもなく、微笑みであったとはなんとすばらしいことだろう。

そうして至った《アルテミス像》(前100年頃)は、さらに技巧高まり、動きをもってひねった腰、裸体ではない衣裳をつけた人体表現はより具体的だ。そのときの顔はどうか。これは女神の像だ。人間の顔で神を造形するという創作動機。その崇高な美しさは、まさしく人間が神になった形だった。これを見るだけでも来た価値があった。

とてつもなくおかしくなってしまった今の理想なき世界に、西洋文明の起源たるギリシャ文化は、本来人間はこうであったという希望を感じさせた。

《アルテミス像》前100年頃、アテネ国立考古学博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund
《アルテミス像》前100年頃、アテネ国立考古学博物館蔵 ©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund

東京居酒屋御三家の一軒へ

国立博物館から上野公園を抜け、湯島の居酒屋「シンスケ」に歩いた。創業大正14年(1925)、私が勝手に「東京居酒屋御三家」の一つと言っている店だ。黒格子に長い縄暖簾。曇りガラスにシンスケと透かした腰板引戸、酒林(杉玉)、緑を添えた蹲踞の打ち水が清々しい。白木造りの店内は、真っ直ぐな一枚板カウンターの向いに薦被り四斗樽が三つ重なり、余計なものが何もないきりりとした東京風の美学がまことに洗練されている。いつものカウンター端に座り品書きを。お、いいものがある。

「雷干しとあじ酢、燗酒」「ほーい」

手拭い鉢巻に縞のハッピで悠然とお燗番をつとめる三代目主人のいつにかわらぬ返事が安心させる。〈白瓜雷干し〉こそ、江戸っ子はこれを見たら即注文すべき今の季節の逸品。「鯵は脂がのってこないと酢〆が生きない、今ですね」という四代目の言葉もうれしい。

ツイー……

展覧会を見た後の酒ほどよいものはない。三代目が私の手にした図録を見て「初日ですか」と言うのはご近所感覚で、そういう客が多いのかもしれない。

芸術もいろいろだ。芸術は時代を反映する。時代に敏感なのは芸術家の宿命、21世紀の美術は21世紀の姿だろう。はるか何千年前のギリシャ美術は、神は本来人間をこのように作ったという姿、神々と人間の共存する世界を憧憬させた。

photo: Kazuhiko Ota

今月のアート

東京展東京国立博物館 平成館(上野公園)
特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」

古代から神々と人間の姿と物語を中心とするさまざまな美術が花開いてきたギリシャ。西洋文化の源である古代ギリシャ文明の壮大な歴史をたどり、ギリシャ国内40か所以上の国立博物館群から厳選された300件を超える古代ギリシャの貴重な作品を展示する、かつてない規模のギリシャ美術展。2016年9月19日(月・祝)*長崎、神戸へ巡回
毎週月曜日休館、ただし7月18日(月・祝)、8月15日(月)、9月19日(月・祝)は開館。7月19日(火)は休館。
http://www.greece2016-17.jp/

今日の一杯

正一合の店 シンスケ

居酒屋好きの大人であれば見逃すことのできない、東京の古いスタイルの名居酒屋。酒屋で七代、大正14年に居酒屋となって四代目ということもあり、日本酒を正しく一合きちんと量り、お燗、常温、冷やと、好みの温度で味わわせてくれる。店のしつらい同様、奇をてらわず余計なものを加えない料理も、またすばらしい。
東京都文京区湯島3-31-5
tel. 03-3832-0469
営業時間平日17時〜L.O.21時30分(LO)、土曜17時〜L.O.21時/日曜・祝日休

おおた・かずひこ

おおた・かずひこ
1946年生まれ。グラフィックデザイナー/作家
著書『居酒屋百名山』『居酒屋おくのほそ道』『ひとり飲む、京都』など。新刊『日本の居酒屋―その県民性』(朝日新書)。BS11局・毎週水曜夜9時〜9時54分「太田和彦 ふらり旅 いい酒いい肴」出演。