OTA KAZUHIKO Days of Wine&Art アートと一杯 太田和彦、美術と酒を巡る

第8回
ルノワールの幸福と、
小酒場「七面六臂」の口福

日本で最も広い人気をもつ画家はルノワールではないだろうか。「ルノアール」というチェーン喫茶室もあり、マッチの絵柄は少女像だ。その「誰もが知っている画風」の全容を見るのに、国立新美術館の「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」はまたとない機会だ。

絵画の実物を見る最大の効用はサイズと筆触だ。会場最初の部屋の2番目に展示された《陽光の中の裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)》(1876年/いわゆる第1回印象派展の3年後、36歳の作品)は、新聞見開きを縦にしたくらいの81×65センチで、1.5メートルほど離れて見るのにふさわしい。

一見してわかるのは、優しく滑らかな肌と、荒々しいタッチの背景の筆触のちがいだ。いろいろな色が薄く重ねられた肌のデリケートなふくよかさに対し、何か(例えば木陰)を描こうという気持ちはなく、青、緑、白の絵具をそのまま筆でぶつけた抽象画の如き背景は、使う絵筆も勢いもちがうだろう。

それまでの「肌は肌色」「筆の跡を残すのは未熟な未完成」という絵画に対し、肌にさまざまな色むらを重ね、背景は筆の勢いのままの絵は、発表当時非難をあびたというが、今では事実の美しさ(女性の肌や新緑は美しい)をさらに強調する「写実を越えた絵画の誕生」と思われる。またそこには古典絵画にはなかった自然の光の生々しさもある。

「エチュード=試作」と副題されている通り、裸婦の上半身というなんでもない構図と題材は、作品としての発表よりは画風の実験と思われ、それだけにルノワール絵画の基本が見てとれ、これだから実物はありがたい。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》 1876年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 ©Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》 1876年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 ©Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

ルノワールは19世紀当時の現代生活である社交界、ダンスホールや酒場をとりあげ、宗教や神話から離れた人間的享楽を描いた。本展の目玉《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)は木漏れ日の広場で大勢がダンスに興じるまことに楽しい作品だ。人物個性の描き分けよりは、人生の日々を肯定した喜びの謳歌が描かれる。筆のタッチは冴えに冴え、肉薄して見るとまるで筆が音楽に合わせて踊っているかのようだ。印刷された画集は所詮、構図と題材しかわからない。

その隣室で息子の映画監督、ジャン・ルノワールの作品断片を映写しているのはうれしかった。ゴダール、トリュフォー、シャブロルらヌーヴェルヴァーグの監督からフランス映画の父と敬愛されたジャン・ルノワールは私も大好きだ。白黒の「ナナ」(1926年)は初見、ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌールのベストキャストによる「フレンチ・カンカン」(1945年)は豊麗なカラーがすばらしかった。「恋多き女」(1956年)はあのイングリッド・バーグマンとメル・ファラーに目が釘付けになる。場面はいずれもスカートを盛大にまくり上げて踊るカンカンのフィナーレ。勢いにのる楽団指揮者と女性ダンサーのカットバックが、いやがうえにも盛り上げる。おお、パリよパリ!

《草原の坂道》 1875年頃、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 © Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF
《草原の坂道》 1875年頃、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 © Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

風景画は、いずれも陽光まぶしい晴天ばかりで色は生き生きと輝く。「私は、風景画なら、そのなかを散歩したくなるような絵画が好きです」と画家自身が言うとおり《草原の坂道》(1875年頃)は、ほとんど抽象一歩手前の荒いタッチで、場の精密再現よりは明るい空気感を描出する。

一方室内の《ピアノを弾く少女たち》(1892年)はおだやかな暖色で統一されながら、精密さをもった意欲作。美しい年ごろの娘二人がピアノに励む題材は平穏な幸福感がある。ルノワールの描く女性は丸顔で豊満な愛らしい美人ばかり。ヌードもまことに豊かにセクシーさは感じない。

《ピアノを弾く少女たち》 1892年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
《ピアノを弾く少女たち》 1892年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

芸術家は苦悩と紙一重、個人の煩悶が作品に精神性を与える、とはよく言われるが、ルノワールにはあまりそれはないなと見てゆくうち、子供たちや女性の肖像画《ガブリエルとジャン》(1895年)の母子、「《道化師(ココの肖像)》(1909年)、「《ジュリー・マネ》あるいは《猫を抱く子ども》(1887年)に至り、それまでの作品になかった精神性=描き出したいもの、を感じた。図録の解説に「悲しい絵を描かなかった唯一の偉大な画家」とあるが、晩年の作品に具象を越えた「幸福であることの精神性」を見ることができたのは収穫だった。

《ガブリエルとジャン》 1895年、油彩/カンヴァス オランジュリー美術館、ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム・コレクション  © RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
《ガブリエルとジャン》 1895年、油彩/カンヴァス オランジュリー美術館、ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム・コレクション  © RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
《道化師(ココの肖像)》 1909年、油彩/カンヴァス オランジュリー美術館、ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム・コレクション  © RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF
《道化師(ココの肖像)》 1909年、油彩/カンヴァス オランジュリー美術館、ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム・コレクション  © RMN-Grand Palais (musée de l’Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF
《ジュリー・マネ》あるいは《猫を抱く子ども》 1887年、油彩/カンヴァス、 オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
《ジュリー・マネ》あるいは《猫を抱く子ども》 1887年、油彩/カンヴァス、 オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

坂の町の小さな名店、「七面六臂」

乃木坂からほどよく歩いて麻布十番の「七面六臂」へ。十数年も住み、他所に越してからも自分の庭のように通っている場所に開店して七年というこの店を、最近まで知らなかったのは不覚だった。店名を場所「七面坂」による、わずか十席の極小店は、まさに大人の隠れ家。編目のような凹凸をつけたカウンターは、使い込むうちに絣模様が浮かび出てきておしゃれ。手幅ほどの間口のミニミニ七輪で直燗する名酒と、自分で炙る炭火焼が名物だ。今日はハタハタ、エイヒレ、イカ丸干しに鯖の春子(かすご=稚魚)がいい。木製円筒のスピーカーから流れる曲は極小音なのにクリアで、私の垂涎の的だ。

知ったような気がしていたルノワール絵画のほぼ全貌を見て感じたのは「幸福」の価値だ。何も苦悩を求めることはない。絵画史的に見れば前衛的試みから始まった技法は、例えば日本では最も好まれる作風になった。素人画家にルノワール風が多いのは、絵を描く幸福がそこにあるからかもしれないと思った。

photo: Kazuhiko Ota

今月のアート

国立新美術館
「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」

世界でも有数のルノワール・コレクションを誇るオルセー美術館とオランジュリー美術館から、100点を超える絵画や彫刻、デッサン、パステルなどが来日。写実的な初期作品から晩年の大作まで、画家ピエール・ オーギュスト・ ルノワールの全貌に迫る。最高傑作《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)が日本で初めて展示されることも話題に。
2016年8月22日(月)まで
毎週火曜日休館、ただし5月3日(火・祝)、8月16日(火)は開館
http://www.nact.jp/

今日の一杯

酒と肴 七面六臂

坂の多い麻布十番の街にひっそりと佇む、まさに隠れ家のような小酒場。出汁、塩、そして各地から直送で仕入れている旬の食材へのこだわりが、丁寧に仕込まれた料理にあふれている。そのひと皿ひと皿を、季節ごとに選び抜く地酒に合わせる口福。店主自慢のスピーカーから流れるジャズも心地よい。
東京都港区麻布十番2-8-16 ISIビル1F
tel.03-6459-4390
営業時間18時~24時(L.O.23時)/日曜休

おおた・かずひこ

おおた・かずひこ
1946年生まれ。グラフィックデザイナー/作家
著書『居酒屋百名山』『居酒屋おくのほそ道』『ひとり飲む、京都』など。新刊『日本の居酒屋―その県民性』(朝日新書)。BS11局・毎週水曜夜9時〜9時54分「太田和彦 ふらり旅 いい酒いい肴」出演。