OTA KAZUHIKO Days of Wine&Art アートと一杯 太田和彦、美術と酒を巡る

第11回
「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展
から裏渋谷へ

「ルネサンス期のヴェネツィア絵画」という美術史の枠組みがあるとは不勉強で知らなかったが、ティツィアーノの大作《受胎告知》が来るというので出かけた。

第1室「ルネサンスの黎明―15世紀の画家たち」のジョヴァンニ・ベッリーニ《聖母子像》、アントニオ・デ・サリバ(別名アントネッロ・デ・サリバ)《受胎告知の聖母》あたりは鮮やかな色彩はあるもののまだおとなしい人物表現だ。

第2室「黄金時代の幕開け―ティツィアーノとその周辺」から、第3室「三人の巨匠たち―ティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ」に至ると、画面は天地4メートル、左右2メートルなどもある大作となり、群像は天に浮き、浮遊落下上昇などあらゆる角度から人物を描く。光の明暗も複雑を極め、空間は限りなく拡大する。

その特徴は「劇的」。描写技術と絵画材料の進歩を得て、人物や風景を平明に描くことから、想像力と描写力のすべてを尽くして「何もかも描く」絵画が爆発的に開花した。

ティツィアーノの《受胎告知》は手前石段と左の柱がかろうじて室内の設定を示すが、その奥は雲が渦巻き、上には天使が浮遊して彼方の青空から光が差し、一羽の鳥が飛んでくる。受胎を告げる大きな翼の大天使は腕を組んで詰め寄り、それを聞くマリアはためらうように小手をかざして受け、静的、聖的ではないドラマチックな出会いは演劇の決定的瞬間のようだ。上部右の天女は祝賀の合唱をうたい、左の天使たちは無邪気に飛び回り、全体はあたかもパイプオルガンの鳴り響く荘厳な「大フーガ」のクライマックスのごとく、絵というものはここまで世界を表現できるものかという興奮が伝わってくる。本来は建物に組み込まれて遠くから見上げる祭壇画を、よくはずして運んできたものだ。それを間近に見られるのは希有のことで、現地イタリアでもこういう機会はないのではないか。1メートル先の目前に見る大天使のサンダルの筆遣いの生々しさ。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》、油彩/カンヴァス、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂蔵
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》、油彩/カンヴァス、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂蔵

さらにティントレットの《聖母被昇天》は、高々と腕を広げる聖母に、下の人物群があらゆる角度から視線を集中させる。明暗コントラストの強い画面の発色はますます生々しく濃厚だ。バッサーノの《悔悛する聖ヒエロニムスと天上に顕れる聖母子》は改悛にひざまずく聖ヒエロニムスの肉体、赤い帽子や書物、砂時計、頭蓋骨など暗喩をこめた小道具、天空に浮く聖母子など、描く喜びが奔放に活躍する。

ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)《聖母被昇天》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵
ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)《聖母被昇天》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵
ヤコポ・バッサーノ(本名ヤコポ・ダル・ポンテ)《悔悛する聖ヒエロニムスと天上に顕れる聖母子》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵
ヤコポ・バッサーノ(本名ヤコポ・ダル・ポンテ)《悔悛する聖ヒエロニムスと天上に顕れる聖母子》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵

これらの絵を私は片目の単眼で見た。多くのドラマチックな絵は手前の主人公は明るく、その背後の薮や森は暗く、さらにその遠くは明るくして、前景、中景、遠景を立体的にするが、それを単眼で見ると、平面絵画が3Dのように生々しい立体感と奥行きで浮かび上がる(ぜひお試しください)。

ヴェネツィア派の絵画力はドラマチック表現だけではなく裸体画にも表れた。ボルドーネ《眠るヴィーナスとキューピッド》の、天使がいたずらで深紅の布をそっと脱がせた豊満な裸婦の官能は、女性の裸を直視することなど考えられなかった時代の画家の特権で、その肌描写は一層(でしょう)力が入ったに違いなく、また観る人をも喜ばせたに違いない。パドヴァーニ《オルフェウスとエウリディケ》の裸女を誘惑する男は神話の主題とはいえ、人の欲望を描いて生々しい。さらに第4室「ヴェネツィアの肖像画」は、宗教や神話ではないヒューマンな人間個性を描き出す技術に発展している。

パドヴァニーノ(本名アレッサンドロ・ヴァロターリ)《オルフェウスとエウリュディケ》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵
パドヴァニーノ(本名アレッサンドロ・ヴァロターリ)《オルフェウスとエウリュディケ》、油彩/カンヴァス、アカデミア美術館蔵

このように私は大いに楽しんだが、展示方法には全く疑問を感じた。1~5の各室は青、赤、緑、グレー、オレンジと壁の色を変えている。《受胎告知》の部屋は真っ赤で、マリアの衣装の赤と左上天使の振りかざす赤い布の発色はすっかりくすんで見える。作家はここに赤を使うことに意味と効果をこめたはずだ。色を引き立てるとき、周囲に同色を置かないのは色彩学の常識で、やってはならないことだ。赤いドレスは赤い部屋では引き立たない。私はグラフィックデザイナーだが、画集の絵のまわりを白地ではない有彩色で囲むなどあり得ない。さらに室内全体が赤い壁ではその反射光も赤を帯び、絵は赤色かぶりする。絵の力を引き出すのが展示だが、これは絵の良さを減退させている。ちなみに解説パネルの写真で見る本来の場所のサン・サルヴァドール聖堂の《受胎告知》はがっちりした白大理石で四囲をかためていた。

また裸体画の多い第5室はオレンジ色のため、肝心な肌色は色対比で青ざめて寒々しく、描いたはずの肌の体温は感じられない。私は再度一周し、部屋によって肌色が変わっていることを見た。ヴェネツィア絵画は画材の進歩による鮮やかな発色に特徴があると解説にあったのにそれは阻害され、すばらしい作品ぞろいだけに残念だった。

大人が楽しめる街、裏渋谷

いま東京の居酒屋の人気スポットは裏渋谷。あまり車の通らない、暗めの曲がった道におしゃれな居酒屋がずらりと並び、歩いて店を品定めする楽しさがある。中ほどの「ぽつらぽつら」はその火付け役ともなった店。通りに向かって全面ガラスの店内は、入るのに中が見える安心感と、客は外を行く人を眺めて酒を楽しむストリート感覚がいい。開店してすぐに予約客がどんどん来るのは楽しみにして来た証拠で、子供化した渋谷を嫌った大人の男女ばかりだ。

私の最初の注文は、ここだけにしかない「琥珀エビスの生ビール」。市販の缶の琥珀エビスも作ったり作らなかったりで、今や飲めるのはここだけだ。そしてお楽しみは丸皿の〈前菜プレート〉八寸で、つるむらさきとキクラゲのお浸し、大山鶏のレバーパテ、イカスミの自家製さつまあげなど、一口ずつ八種が並び、女性は「わー、きれい」と喜び、デートには必殺だ。

しかし私はひとり。ぼんやりといま見て来た絵画を思い出した。いちばん印象に残ったのは、素朴な人の顔や自然風景から発して、理想の女性美を描く、宗教的場面を再現するなど、絵画は、見ることのできないものや、見えない世界、想像上の世界まで描けるようになったという喜びの横溢だ。拡大した絵画力は人間復興や、過剰技巧のマニエリズムにつながってゆく。その爆発がヴェネツィアからおきたのは理由があるのだろう。いつかヴェネツィアに行ってみたい。

photo: Kazuhiko Ota

今月のアート

国立新美術館
「日伊国交樹立150周年特別展
アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち展」

14世紀から18世紀にかけてのヴェネツィア絵画を中心に約2000点を数えるアカデミア美術館のコレクションから、選りすぐられた約60点の名画によって、15~17世紀初頭に至るヴェネツィア・ルネサンス絵画の展開を一望。ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼといった巨匠たちの傑作が揃い、中でも特別出品となるティツィアーノ晩年の大作《受胎告知》が大きな見どころに。
2016年10月10日(月・祝)まで
毎週火曜日休館
http://www.tbs.co.jp/venice2016/

今日の一杯

うみとはたけ ぽつらぽつら

若者が溢れる渋谷のイメージとはまるで異なる裏路地にありながら、味に敏感な人々が集い、常に賑わいを見せる人気店。毎朝市場から鮮魚を、契約農園から野菜を仕入れ、旬の食材を和洋に活かした料理をオープンキッチンから供してくれる。日本酒やワインの品揃えもぜひチェックを。
東京都渋谷区円山町22-11堀内ビル1F
tel.03-5456-4512
営業時間18時~24時/不定休

おおた・かずひこ

おおた・かずひこ
1946年生まれ。グラフィックデザイナー/作家
著書『居酒屋百名山』『居酒屋おくのほそ道』『ひとり飲む、京都』など。新刊『日本の居酒屋―その県民性』(朝日新書)。BS11局・毎週水曜夜9時~9時54分「太田和彦 ふらり旅 いい酒いい肴」出演。