昼のおでかけ、真夜中の好奇心

山内マリコ 連載エッセイ【第12回】
生きることは、故郷を探すこと

お出かけの楽しさに目覚めたのは、東京に来てからだ。それまでは家で本を読んだり、映画や海外ドラマを観るのが無上の幸せというかなり重症の引きこもり体質。どうせ外に行っても疲れるだけだし、なにをするにもお金がかかる。若いころはナイーブで自意識過剰だったから、出かけるたびにいろんな気持ちを味わうのも嫌で、安心安全な自分の部屋でぬくぬくしているのがとにかく好きだった。どうしてそんな性格になったかというと、18歳までを過ごした地元の街に、とりたてて行くところがなかったというのが大きい気がする。

わたしが18歳までを過ごした富山県は、壁のようにそびえる立山連峰が街全体をぐるりと囲んでいるという、地形からしてどこか閉鎖的な土地だ。日本海側の気候ゆえ、どんよりねずみ色に曇った空がデフォルトで、冬になれば雪も降る。名物は「鱒寿司」、特産品は「薬」という渋さ。県民性はまじめで質実剛健、そのぶん遊び心には欠けるようで、レジャー系の施設も少ない。子供のころはけっこうあちこちに連れて行ってもらったが、家族そろって“お出かけ”という高尚な習慣はなかった。なにしろお出かけにふさわしいスポットが決定的に不足していたのだ。

故郷というのは若者をもやもやさせるもので、10代のわたしにはこのなんにもない地味な街がどうにも魅力的に思えず、かなり物足りなかったし、ちょっと恥ずかしくもあった。嫌いじゃないけどいると妙に気持ちが塞いでしまう。田舎というほどのどかでもなく、幹線道路沿いに大型チェーン店が並んでいる単調さにも辟易させられた。車を持っていない高校生にすれば不自由きわまりないけれど、18歳になって車さえ手にすればみんな水を得た魚のようになる。といっても通学路にあったコンビニの駐車場やファストフード店でたむろしていたのが、郊外のファミレスやショッピングモールに代わるだけという感じ。

はて、自分はどうしてこの場所に生まれたんだろう。偶然なの? 必然なの? そこになにか意味でもあるの? それとも意味なんて、全然ないの……?

ところが県外へ出て何年も経つと、故郷を客観的に見られるようになり、ダメなところも笑えるようになってきた。年をとるにつれて自然と郷土愛が湧き出したのだ。地味で愛おしいわが街。おしゃれなイメージとは無縁だけど、その方がよっぽど愛し甲斐があるってもの。富山のことが気になりすぎてしょっちゅう「富士山」を「富山」と空目してしまう。親元から離れた方が親に優しくできるように、わたしの場合、東京と富山を行ったり来たりするくらいが、いい関係でいられるみたいだ。それまで決して故郷には向かなかった好奇心がむくむくと起こり、そしてついに、書店の郷土史コーナーに異様な関心を示すまでになってしまった。

『村の記憶』(山村調査グループ編・桂書房)は富山県にかつて存在した村、つまり「廃村」の記録を集めた1冊だ。過疎化が進み、人々は村を去ったものの、その記憶が完全に失われる直前の平成5(1993)年に、富山県教職員山岳研究会によって調査されている。記録としての文章は冷静なトーンだけど、元村人から提供された写真はどれもエモーショナルだ。家族が緊張した顔で写る記念写真、お祭りの様子、イイ顔をした子供たち、いまや世界遺産の合掌造りも普通に建っている。廃村時期は昭和40年代が多い。自分が生まれるつい10年ほど前まで、こういう素朴な暮らしがあったなんて……。

(前掲書より)

――遠い昔、安住の地を求めて、祖先が探しあて、開拓し、水を引き、住みついた谷間だ。何代もの祖先が、つつましい幸せを守って住み続けた土地だ。

村が消え、町はにぎわい、人はみな豊かである。そして今、飽食の世とか。

この本をめくっていると、ちょっぴり後ろめたい気持ちにもなる。彼らが味わった人生の厳しさに比べると、自分のそれはどうしたって薄っぺらく感じられてしまう。土着性とは無縁の時代に、市街地でぬくぬく生まれ育ったわたしには、“故郷”という言葉はなんだか仰々しくて、“地元”くらいがしっくりくる。この本に出てくるような村こそ、“故郷”と呼ぶにふさわしいなぁとしみじみ思う。

もう1冊『富山廃線紀行』(草卓人・桂書房)には、昔近所を通っていた線路の写真が載っていて、「おおっ!」と感激した。自分が普段見ている当たり前の風景に限って、わざわざ写真に残していないから、これは貴重である。線路跡を見ながら、気がつけば意識は記憶の中のその場所に、ふらふらと訪ねて行っている。

故郷に抱くわけのわからない愛情は、いろんな場所に応用可能な気がする。東北や熊本での震災で被災された方、原発事故で町を追われ避難を強いられている人々、さらにはシリア難民など、故郷がめちゃくちゃにされてつらい思いをしている人の気持ちは、それが自分の故郷だったらと置き換えて考えると、すべてがわがことのように思え、他人事でなくすることができる。

それにわたしは、こういう地元への愛着を、誰もが持っているわけでないことを最近知ったのだ。小中高生のころ転校ばかりだったというある人は、どこを故郷と思っていいかわからないと、少しさびしそうに言っていた。東京出身の子に、「上京っていうドラマが大好きだから」とうらやましがられたのも意外だった。

そう言われるとイケてない故郷も、なんだか全然、悪くない気がする。

誇らしくさえ思えてくる。

次に地元に帰ったときは、未知のお出かけスポットを開拓するつもり。

山内 マリコ

山内 マリコ
1980年富山県生まれ。2008年「女による女のためのR―18 文学賞」読者賞を受賞し、2012年『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)でデビュー。著書に『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎)『パリ行ったことないの』(CCCメディアハウス)『かわいい結婚』(講談社)『東京23話』(ポプラ社)などが ある。 最新刊は初のエッセイ集『買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて』(文春文庫)。「小説すばる」にて長編小説を、「anan」「TV Bros.」等でエッセイを連載中。

illust: M!DOR! photo: Kiyoshi Mori